Last Update:  June 06, 2003
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日々想った事徒然なるままに。想った事絵にしてみたり。Local Info





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想像の世界の住民

あなたの周りのモノ。 例えば今見つめているスクリーン、手を置いているマウス、静かなファンの音を鳴らしているコンピューター、それが置いてある机、今座っている椅子。 机に乗っている紙やペン。 ベッドの上に放ってある、読みっ放しの雑誌。 さっき見たテレビ番組、なんとなく流れていたラジオ放送。今飲んでいるコーヒー。 例えば今着ている服、下着、靴下。 さっき使った洗顔料、歯磨き、シャンプーにコンディショナー。 洗い流したメイクやマニキュア。 例えば今日運転した車、通勤に使った電車、自転車、道路、線路。窓から見える住宅地、オフィスビル、山、川、野原、海岸。 空気、水。 毎日通勤している会社。 今日一緒にランチを食べた友達、同僚、上司、お得意さん。 夕食を共にした彼氏、彼女、家族。あなたの周りに見えるモノ、あなたが触れるモノ、聞けるモノ、嗅げるモノ、感じられるモノ。そして、自分自身。 みな、他人の想像の世界に存在する。 そして、他人の想像もしくは創造無しにはその全ては存在し得ない。 人類が存在し得る大きな理由の一つは、この想像力・創造力にあるといえよう。

宗教染みた話でも、オカルトでもSFの世界の話でもない。 他人の想像、空想、創造の世界にあなたは存在し、またあなたの周りのモノもその中の住民である。 そして、そのカラクリは至って簡単である。 実は誰もが常日頃感じていることだろう。 ちなみに他人にとっては自分も他人なので、ここでいう「他人」には自分自身も含まれる。

原始時代。 火が生活に使われ始めた。 おそらく当時、火は周りに多く存在していたことだろう。 山火事もあれば火山の噴火もあり、人々はしょっちゅう火を色んな形で目にしていただろう。 しかし、そこにあるからといって初めからみながその使い方を知っていたわけではない。 火を生活の中に取り入れようと考えた誰かが必ずいるはずである。 もちろん火はさほど珍しいものではないので、それぞれの地域において火の実用性に気づいていた者は少なくなかっただろう。 「うむ、この熱く、明るい、チカチカしたものは何かに使えるのではないだろうか」「そういえば山火事で焼け焦げになったシカを食った時は旨かったな。 あの熱いものを当ててみたら同じ事になるだろうか」「あの明るいチカチカを洞窟の中に入れたら例え夜中にでも鏃を多く作れるぞ」そして火は生活の中に取り入れられ、またしばらくしてから自分たちで火を熾す工夫がこなされていったのだろう。

コロンブスの卵ではないが、この、最初に誰かが思いつく、と言うことがこの世の様々な現象の発端ではないだろうか。 人為的に作られたモノは、存在する限り誰かが作ったモノであり、誰かが作ったのならば、誰かが考えだしたモノである。 そして、その誰かというのは最終的には一人に辿りつく。 空気や水のように自然に存在していると考えられているモノも、人間が作り出したモノにより汚染されていたり、人工的に作られていたりしているので様々な形でなんらかの影響は受けている。 「テレビのチャンネルを変えるのを座ったままできないだろうか」「トイレの水は汚水とはいえ流し捨てるのはもったいない。 どうにか再利用できないだろうか」「あの島との距離は近いのに周り道をしなければ辿り着けないのは面倒だ」 このような些細な疑問や思いつきが発端で、リモコンや浄水施設や橋が想像され、創造される。 そして二次的な結果として、大気中には電波が飛び交い、川を流れる水や雨は人工的に浄化されたモノや、悪いケースでは酸性雨になり、橋を利用する車が増加するためその地域の大気中の排気ガスが上昇したりする。 そういう視点でみると、空気や水でさえ人間の想像の副産物ともいえる。

無形財産、例えば教育制度や社会制度も言うまでも無く作り上げられたものである。 保育園、幼稚園、小学校、中学高校、大学等の機関やそこで学ぶ期間の長さそして教育範囲やそのレベル。 それらはそれぞれの社会の文化や経済情勢や生活水準によって設定されており、逆に教育レベルが社会の水準を決定する事も少なくない。 他人から教育を受けるということは、自分の知らなかった事を学び視野が広がる利点があると同時に、自分から学び取る時に生ずる想像力を制限してしまう可能性もある。 どこかの国のように教育制度を利用して国民を洗脳し、個々の想像を可能な限り排除し「理想」国家を作り上げることも行われている。 誰の理想かは定かではないにしろ、「誰か」が望んでいるモノには違いない。 国家一つも誰かの想像の産物に成り得るわけである。 こう言うと聞こえは悪いが、なんてことはない、これはどの国でも行われていることである。 常識というのは何故その国や文化の中で常識なのかというと、文化習慣や教育によってその物事が常日頃人々の間に知れているからであるが、元を辿れば誰かが始めたモノである。 そして、それが正しいと社会の中では暗黙の了解になっている。 常識は事実であっても真実ではない場合が多いのはその所為ではないだろうか。 それは、その誰かが作り出した常識や制度に疑問を持つ者が大勢いる事実からも伺える。 政治家、評論家、革命分子や個々の市民を含め、ほぼ全ての国家には「誰かによって定められた社会」を自分達に有利に変えようと奮闘する分子が存在する。 そして、「自分たちに有利な状況」もまた、誰かの想像から始まるモノである。 どれが一番良い、などという完璧な状況は出来るはずは無く、良し悪しのバランスが取れていない地域では戦争・論争が絶えない。想像(理想)と現実のギャップが大きすぎるからだ。

話は変わるが、自分の想像というのは他人や周りの現象を理解する上で非常に大切な基点となる。 簡単にいうと、自分は他人ではないからである。 自分ではないモノを理解するには推測を要する。 そして、自分を理解するのでさえ困難なのだから、他人を理解するには相当の努力が必要である。 例えば、恋愛関係を保つにはお互いの理解が大切だと思われるが、相手を理解することは自分の想像を要し、そしてその想像の域を決して出れないため相手を完全理解すると言うことは不可能である。 想像と真実のギャップを可能な限り狭める努力をしてこそ始めてお互いを知ることが出来ることであろう。 そのギャップが少ないカップル、すなわち、価値観などが似ている者同士はお互いを理解しやすいのは勿論その為であろう。 努力の必要量が最小限に抑えられ、不必要な喧嘩も起こらないだろうし、「あなたが何を考えているか全くわからない」などという言葉は相手の口からは出てこないだろう。 逆に、相手に抱くイメージ、想像、または根拠の無い空想が明後日の方向に暴走してしまっているのなら話にならない。 また、お互いのコアの部分が見えていないカップルにしてみれば「愛してる」などという言葉は中身の無い上っ面なモノか、想像と真実のギャップを埋めるための都合の良い道具なのかも知れない。 しかし恋愛は面白いもので、価値観の全く違った二人が上手くいっているケースはいくらでもある。 自分に無いものを求めるのが人情でもあり、対極の者が磁石のように惹かれあうのも自然の摂理なのだろうか。 話の趣旨が異なるので恋愛論はまたの機会に触れることにするが。

理解の話に戻るが、人間は個々の(知識、経験と推測を基にした)想像を基盤にして周りを見るため、この世の全てを理解すると言うことは不可能であろう。 その証拠に、原子のことから宇宙のことまで、3次元や4次元の理解、はたまた、人間の心理やこの世のありとあらゆる現象について未だに分からないことだらけなのである。 科学の発展により、発見できるものや創造できるモノの可能性は無限に広がっている。 しかし、魂は存在するのか、死後の世界はどうなっているのか、人生の意義は何なのか等、人々の想像の域を超えている物事については今だ宗教や哲学というモノに頼りっきりである。 人の思考というのはどうあがいても個々の想像の域を出れないため、自分の事さえも理解できていない。 何故なら、自分を理解すると言うのは自分の想像力だけで成し得る事ではないからだ。 とどのつまり、自分も自身の想像世界の住民であり、他人の創造の影響、すなわち他人の想像の力を多大に受けているからである。

自分の想像の世界に全ては存在し、また他人の想像の世界に自分は存在する。 そして、この考えも私自身の想像の中のモノであり、これを読んでいるあなたとは全く違うモノであってもおかしくはない。 あなたの想像と私の想像は違って当たり前なのだから。 同感したのならばたまたま同じ様な意見を持っていたのだろう。 それは違うと感じたのならば、それはそれで重要である。 何故ならそれはあなたの想像力が働いている証拠なのだから。 

全員が同じ考えだという時は、誰か考えていない奴がいるということだ。 (ジョージ・パットン - 戦車部隊司令官)

この言葉を逆に見て取れば、何に対しても反対意見があり世の中が常に変わりつづけているということは、常にどこかで誰かが想像力を働かせて考えているということの証拠だろう。 人類から想像力を奪ってしまったらその発展は無くなる。 想像の世界が無くなるということは、その世界の住民、すなわち自分の存在自体が消滅してしまいかねない。 想像力というのは自分の存在にとって無くてはならないものである。 

これを見て何をどう結論付けるか、それはあなたの想像力に任せるとしよう。


:: ちょっと寄り道 ::

自信とは、自分の能力や技量で物事が達成できるかどうかの見通しのことです。

そして、見通しを立てるのは想像力です。
自信のない人に共通しているのは想像力に乏しいことです。

(J・マーフィー)




       
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